先日、友人と一緒に、群馬のブラジル人コミュニティーに立ち寄ったんだけどね。いやー品揃えから雰囲気から外国に来たようで、最高。(多文化ってね、心地よい。そんな「気」を吸い込もうと、俺の肺は広がるよ)

でもね、店内で誤ってラックからデカイジュースのボックスを2本ほど落としちゃったのよね。そしたら蓋が取れちゃったり、ジュースが漏れ出して床が濡れたり、、、、
「あちゃー!!ごめんなさい」といいながらジュースを拾い、床をふく友人を見ると、同時に
「だいじょうぶよー」と日系ブラジル人のおばちゃん(ポロシャツの肩に「MOM」と刺繍がついてた、なんか可愛い)がかけより、床をふき出す。
自分らの頭の中には「こりゃ弁償しないといかん」なんて事が頭をよぎるわけですが、MOMのおばちゃんはすぐ様「大丈夫よー」を連呼。イコール、俺たちが弁償する必要などない!という事なのだ。その「余白」のある優しさと雰囲気に心から「OBRIGADO」だね
ハワイに住んでいた時も、こんな事がよくあった。お会いした日系の方達の家族は寛容で優しい。いつも余白を持って受け入れてくれる。ハワイの古いレストランに行くと、優しく話しかけてくれる日系の年配の方も多く、もはや日本語は話さない人達ではあるが、英語で喋っていて、あとで振り返ると、「あれっ何語であのおばちゃんとはなしていたっけ?」などと訳がわからなくなる、言葉が関係なくなるってのはこの事か!なんて感じる事も日常茶飯事。
今でも日本の地方も同じようなのだろうか?それとも地方は暖かさがあるというのも勝手なステレオタイプだろうか。
ただ相対的に思うのはね、東京は(総括はできないけどね)何か違うぜ。余白がない。自分で決めた規律(マニュアル)を守ることだけが「良い事」だとして、お客に規律を課すことも多いね。「ありがとうございます」「いらっしゃいませ」もその人達が決めたであろう規律のもとで、余白なく聞こえるのは自分だけだろうか。客も客で、速さや安さという定量性ばかり気にしたり、悪評レビュー書き込み特攻隊みたいな「下品」なやつも多いし、ギスギスする。
どちら側にとっても、そりゃ交渉ごととかコミュニケーションは自分の条件を相手に伝わるように述べられてナンボだが、何を、よりは、どのように、を「表現」できるかが、鍵だよ。だから余白がKEYと思ったよね、今回
なんなんだろうね、あの余白の雰囲気とは、あの包み込まれる優しさは。。。
日系コミュニティーに限らず、彼らの生まれ育った環境には、おそらく「信頼しようとする」性善説がコミュニティーに生き続けているのかなとも思うね。逆に、その性善説がないところは、信用しようっていう気構えがまずないので、店員もお客も、それぞれの「規律」を、「当たり前がない、常識がない」と自分以外の他人に課せてしまうのかもしれない。
ブラジルの「MOMおばちゃん」は、お客さんがきてくれてナンボ、という事だろうし、でも無作為に誰にでも垂れ流しに、ものを無料で配っているわけでもない、でも、なにか、根幹にしっかりとした商売のことと、人として優しくある、ってのが垣間見える。。。だから、外部から来た俺はまた行きたくなるし、地元の人は通い続けるのだろう。素晴らしいと思う
気付きというか学びというか、自分はどうありたいかな、などと、いろいろ考える日となりました
