パラドックスや矛盾という概念が好きです。例えば「わき見運転キケン!」というわき見運転をしないと見れない看板など、ニヤけてしまいます。

作品の中にもその影響を垣間見ます。それというのも、矛盾やパラドックスには終わらない「永遠性」を感じるからです。終わらない事、終わりのない事ほど、なにか安心感を感じます。答えがないのです。また、そこに、真実を感じます。
例えば(諸説ありますが)日本語の理解すると言う言葉は、多くの場合「わかる」という動詞を使います。そしてわかるは「分かる」という「分」という漢字を使います。ということは、分ける、分かる、事が物事を理解することと言い換えてもいいわけです。さぁここからがポイントです。
1つのものを半分にきります。それをまた半分にきります。いったいどこまで、半分に切る事ができるでしょうか?そうです永遠に「分け切る事はできない」永遠に続くのだと思います。ミクロのミクロの世界は永遠になっていきます。
ということはです。。。完全に、わかり切る、なんてことはできない、とも考えられます。
自分のことも、他人のことも、わかり切ることはできない。だから楽しいのだと思います。
わかりきったつもりでも、その人はその瞬間に成長や変化をしていて、完全にその人を把握することは不可能です。
恋人、家族、団体、企業などで、でくわす、「わかりきった風」にすることは、おそらくですが、この論法でいくと、NGです。「彼女はXXのひとだからね」、「あいつはいつもこういう振舞いをするんだ」「とはいえ、彼は昔こんなやつだったんだぜ」。。。これは「今生きている」人を理解しようとする上で、大NGです。その姿勢では、おそらく何も理解できないで終焉してしまう。
ではどうしましょう?って話ですが、
私はこの絵のように、終わりのない「わかろう」とする努力を続けることがKEYなのではないかなって思うんです。おわりない、だからこそ「理解しよう」とし続けることが「理解できたかどうか」よりも重要だと思います。
*おまけ矛盾)うそをつくと鼻が伸びるピノキオが「わたしはうそつきです」といったら鼻が伸びた。。。真実はどこにあるのでしょうか?笑

