おれは米国で考えていた。
おれには元々人種差別ってプログラムはなくて、白人だろうが、黒人だろうが、アジア人だろうが、、、まぁいっしょこたに「ガイジン」、ピリオド。
だから俺にとってのガイジン間に優劣はない。黒人の友人をいちいち「おれの黒人の友人」という説明もない。友人は友人、これで終わりだ。しかし段々と「おれの友人は、黒人の友人で。。。」と説明をする自分が米国にいた。英語もうまくなってきて段々米国の文化がわかってきたからだ。そう説明すると周囲の米国人にはわかりやすいだろうという既存の情報や期待が米国文化のコンテクストに存在している。そんな米国文化にあわせる俺自身もおかしい、全くもっておかしな話だ。
人種差別を嫌う米国の人たちがいた、人種差別はだめだ、という意見だ。初めの頃は、悪くない人たちだな、などと短絡的に感じたのだが、後になって違う考えが頭に浮かんだ。
人種差別という小さい頃から受けたプログラムに対して、人種差別反対論は、自分で選んだアンチテーゼの1つの種類のアイディアでしかなくて、純粋に人種差別が存在しない環境で生まれ育ったという未経験デフォルトからくる違和感ではない、のではないか?という考えが芽生えてきたのだ。
それというのも、以前(まぁなんというか、その人はいわゆるいい人にふるまう、環境問題とか人種差別とかにたいして反対する寛容風な人)ある人に米国で会った。「私を友人だ」と近づいてきた。しかし一回口論になり、最終的に私に嫌悪感を抱いた結果、彼は捨て台詞を言う「お前なんか、お前が元々きたところに帰れ!」と言う。お前はここに属さない、という「おまえは非アメリカ人だ」という優劣関係をぶつけてきたのだ。なるほど。そいつが勝手にそいつ自身が選んだ「いい人」像はそいつにとっては「いい人」なのだろう。やはり、一旦プログラムに晒された事は潜在的に存在し続けるのだ、と感じた。まぁそんなことはいつも起こった。周囲の人も「それは言ってはいけない事」だという。それも違和感があった。じゃ言ってはいけないけど、その概念は心にしまっとけ、という訳なのかもしれない。デフォルトでその人種差別プログラムは存在している事をみなさん心のどこかで知っている。
まぁ日本でも、米国は差別に敏感で、メルティングポット、自由の国だ、などという意見をきくのだが、いつも違和感を抱かずにはいられない。
俺はこう思う、俺以外は全員ガイジン。奥さんも子供もガイジン。日本人も。全員、おれのシステムの外側に住む「ガイジン」なんだ。リスペクトすべきひとはするし、そうじゃないやつは無視、それでいい。
その人の肌や目の色がどうのこうの、そんなんハナっから関係ねーよ
